若者の痛い所を突く「確かに」

若者のあるあるや自分の体験談をある意味で真正面から、とてつもなく爆発的に盛って書いていくブログ。途中から作者自身も何を書いているのかわからなくなる。頭を空っぽにすると辛うじて内容が理解できます。

満員電車とはすなわち、イナバウアーのような姿勢で足の裏の痛さを我慢する場所である。

早朝や夜、眠そうかつ死にそうな顔で満員電車で巻き寿司のご飯粒の如く、まさにすし詰め状態になっている学生や社会人。疲れているのに一番座りたい時に当然のように座れない座席。現代の電車事情とは中々に世知辛いものがある。

 

 

かくいう僕も中高生の頃は特に満員電車として名高い路線を使用しており、非常に窮屈な思いを味わっていた。

 

 

そもそも普通に電車の中で立っている時点で通常より足の痛さを意識してしまう。『電車で立位姿勢を保つ』という行為そもそものに何らかの精神的作用が働いているとしか考えられない。

 

 

これは明らかに満員電車という苦しみの概念が日本人の脳に刻み込まれているせいであろう。スポーツでも精神状態がパフォーマンスに影響されるように、ナイーブな心が立つという行為に辛さを追加させてしまっているのだ。

 

 

 

 

これはとてもまずい。

非常に起こりやすい現象、まさに現代病の一種と言える。

 

 

 

そしてこの立つという行為だけですら苦しみをもたらす魔性の乗り物『電車』の厄介さはもちろんそれだけではないのだ。この程度は通常攻撃と言えるだろう。

 

 

敵の本領は『満員電車』にこそ発揮されるのだ。人がすし詰めで苦しい状態にあると、奴は恐ろしい程にとんでもない事をしてくる。冷酷、極悪非道の所業と言えるだろう。

 

 

 

混ぜるのである。人を、我々を混ぜてくるのだ。

 

 

 

シェイクである。

 

 

「揺れが発生する恐れがあります」と事前に連絡こそあるものの、だからと言って我々が何かできるわけではない。全くプラスにはならない、むしろ地獄の宣告にも等しいのである。

 

 

 

「くっ、いつだ……。いつ来る………!まだ、まだか……………来るならさっさと来い。返り討ちにしてやろう!!!………むぅ!!来た、き………………きtttったああああああああああああああ!!!!」

 

 

 

こんな感じだ。

 

 

これによって乗客が縦横無尽にかき混ぜられることになる。窓にいる客はカエルのようにへばりつき絶望し、足元にバッグを置いた人は衝撃でどこか見えない場所に移動してしまって絶望し、イヤホンが他人のバッグに引っ掛かってすっぽ抜けて絶望する人もいる。スマホでも落とそうものならその人物は今生一の運の悪さを発揮したとして、やはり絶望すること間違いなしである。

 

 

 

そしてこれら以外にも様々な「絶望の可能性」が電車内には蔓延しているが、その中で最も絶望的な絶望がある。

 

 

 

 

それは姿勢変化である。

態勢が変わってしまうのだ。

 

 

 

ただの立位姿勢、場合によってはつり革や手すりにつかまっている人もいるがそんなことは些細な事。あらゆる全ての一切合切を動かし、解除不能の前衛的なポーズを強制させるのである。

 

 

 

 

これでロクな態勢を取れなかった敗残者はもう巻き返すことはできない。敵側による一方的なサバイバル対戦であり、敗者復活は存在しないのだ。

 

 

 

そしてこのような人が動く状況が始まった時、重要なのは足の置く位置である。両足とも確実に自分の体の真下に置く必要があるのだ。ここで妥協して片足でも離れた場所に置いてしまっては片足にかかる体重が大幅に増してしまい、非常に足が痛い。

 

 

要するに重心である。重心を両足に集める立位姿勢がこの世で最も効率のいい立ち方なのだ。

 

 

 

僕はこれまでの電車人生でそれを学ぶことができた。

 

 

しかしそんな簡単に上手くいくほど満員電車は甘くない。

 

 

 

人ごみの恐ろしさ、電車の恐ろしさを我々は骨の髄までしみついているはずだ。

 

 

 

 

 

後ろに下がろうとして自分の足元に「ガッ」とバッグにつまずいてしまう場合や、つり革に執着し過ぎていざ手を離したときに「あ、やべ」と降ろすスペースがなくなり、授業で先生の質問に回答する時のような無意味な姿勢でいざるを得なかったりするときがある。

 

 

 

四肢のどれかが他の乗客に挟まれ、謎に誰かに手や足を差し伸べているパターンも多い。

 

 

 

特に手ならまだいいが足の自由を奪われた場合、それはおそらく最悪のケースと言えるだろう。

 

 

 

足が動かないのに人ごみが正面からどんどん来る。なので上半身をそらすしかないわけだ。するとできあがるのは人知れず見事なイナバウアーを決めている男だ。

 

 

 

イナバウアーを電車内でひたすらに自分が降りる駅まで決め続けなければならないという苦痛。人が見ていない事だけが救いであるが、そこで忙しい早朝や夜になぜイナバウアーをしなければならないのか、という潜在的疑問に気づいてしまう。

 

 

経験がある人は多いであろう。

 

 

更にはその内我慢できずに後ろに倒れるかと思いきや、実際には後ろにも人がいる。

 

 

体重が半分以上そちらにいくわけだ。こうなるともう自分ではどうにもできない。己の体の決定権は自分ではなくなってしまう。

 

 

完全に他人頼りの状況になってしまう。自分にできるのは「っふ」と腹筋に力を入れてイナバウアーを維持する事だけであり。それ以外にできることは一切ない。

 

 

 

 後ろの人間に文字通り己の体をささげ、「どうか動かないでくれ」と祈り続けるのだ。

 

 

 

僕の場合はかつて宗教勧誘のお兄さんにもらった念仏の本の内容を思い出し、ひたすらに心の中で唱え続けている。イナバウアーで。

 

 

後のことはもはや天に任せるしかない。イナバウアーなどと足にも腰にも負担のかかる姿勢を取らざるを得ないのは非常に嫌だが、なってしまったものはしょうがない。

 

 

自分で何とかできないのならば、できる何かに何とかしてもらおう。

 

 

 

その間は念仏でも唱えて暇でも潰していようではないか。

 

 

 

 

 

さあ、みんなも一緒に、

 

 

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄
舍利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是
舍利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色 無受想行識
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界 乃至無意識界 無いおえふうbぢwjぽづうぇいhどぃpdjwぽづwhふいえじえjをdじおwwでゅうぇんcうふいwbちゅいwんcn